温度感のある景色

自分のために書きます。

夢を叶えなければならない私たち

今年もおしまい。
23日にはたちになりました!いい響き。はたち!
ここまでの日々は畑を耕すような日々だったのだろうなと思っています。
少しずつ蒔いてきた種やこれから買う球根を植えて、芽を出し花を咲かせるのがこれからの10年だと思っています。
 
そもそもの畑の位置や大きさは、もう決められているようにしか思えないのです。決まってしまっていたのです。
その畑の性質や気候やなんとかに、愚痴をこぼし、嘆いていたような1年でもありました。
「立派な畑」というものが欲しければ今のこの地は満足できるものではありません。引っ越した方がいいかもしれない。
でもこれが私なのです。この乾きやすい土や安定しない日当たりは、これから変えられるものではなく、私の当たり前そのものなのです。
 
「あなた」と私が同じ人間で、でも全く違うということにいつ気がついたのかはわかりませんが、その気づきから得られた重力が私を立たせています。
夢の叶え方を知ってしまった私たちは、
そのままその工程を追っていくだけで、(簡単にとは言いませんが)夢を叶えられるのでしょう。
その達成感はきっと自分を幸せにするでしょう。
でも、どうしてもわたしには、それではだめな気がしてしまうのです。
その、何がどうだめであろうと、何がどうあろうと
20代という若さは、外向きに使わなければならないだろう。私はそう思っています。
だから何がどうだめなのか、あなたと、みんなと、考えてもらえる時間は少ないです。
その先は、
社会のため が何を指すのかはわからないけれど、
社会的に、自分ではない人と自分ではないことのために、自分の手には収まらないところ目指して、自分に出来ることをして行くのだと思います。
その先で花を咲かせる過程が、畑の一番美しい時期を教えてくれるだろうと思います。
そういった、こういった、一人でいるときに浮かんでいるあれこれを、もう少し、私の外側に出すことができたなら世界がまた違って見えるはず。
枠組みに充填するやり方ではなく、たとえ形になっていなくとも、外側に出す努力を意識的にしていくこれからの1年にしたいです。

 

 

あと1か月

興味関心・強み・価値観

3つの軸があるよ、所属を決めるときに。

 

面接でこう言われた。

私の場合は、興味関心と強みが反しているのかなと思った。

関心のある物事や興味のある人と話すときに「自分薄っぺらいな」と感じてしまうことが多くて。

例えばリーダー層の人たちと話していて、自分知識も”本物の”経験してないなと思う。

好きな、気になる本とかも、あんまり読めていないというか。

多分私「学問」ってすきじゃない。応用パターンから自分の公式が出せればいい。

でも公式を作ろうと思っているから辛いのであって、先人に学ぶってことができるようになるともしかしたら楽なのかなあ。

 

人に素直に向き合う、人のよりよいbeingにコミットする っていう軸と

対話する という軸にコミットするか

というと私は後者で。

だからこの半年くらい50%くらいしか思った事をやれてない。

 

これをやるべくして生まれてきた。みたいな人を見れば見るほど

自分はなんのために生きているのかと疑問に思う。

しかも「そんなことないよ」って言われることを夢見て、母に泣きわめいてみたりして「じゃあ死ぬしかないよ」と言われた。

「責任」というものは自分の家としてのこととしてあって、出生したということに少し意味があるなと感じています。

でも、気づいたからといって、それを果たせるかは別の話。

何のために生きてるのか、と言いつつスターバックスはすごく好きでやめたくなかったりするし、休日はひたすらに寝ないと無理だったりするし。

 

なにがいいたいのか

と無意識のうちにうっていた。

 

なんだろうね

専門分野を見つけることが先か、ゴールを見据えるのが先か、歩み方生き方を決めるのが先か、仲間を見つけるのが先か。

鶏と卵てきな側面もあるだろうけど、そうでない部分を見極めていきたいと思うのです。そして選択をしたい。

就活を少しずつ意識しだしていて、1年後には迷っていたくないから。

かといってもっと自由に生きたいと思ったりもしているし。春は短期留学というか旅行したいし。

自分が出した成果でしか認められないという観念から抜け出すためには人の力を借りるしかない と思っている観念がすごく嫌いなんですけど割とその解しか見つかっていない現状もあり。

人との関わりを欲している自分。

 

他人のことを大切に、尊重すべき対象として捉えていない。

自分に親切にしてくれる人のことも、何度も裏切って試さずにはいられない。

極力少ない人数の社会の方が本当は良いと思うこともある。

でも、

でも、

自分が生きていくためには、

私が生きていてもいいということを思っている人たちと一緒にいないといけない。それが組織。

自分が他人にとって、より多くの人にとって役に立つアウトプットができることが一番いいけれど、そんなことは無理だと分かってきた。

組織を続けるために、と模索できるのは、組織って積み重ねが大事だと思うからで、むしろ積み重ね以外に意味はないとすら思っているのが今の所属。

そこで「やりきる」ってなんなんだろう。

輝かしい結果は出ないと思っているし、輝かしい結果は今の事業の正解ではないし。でも確かに何か持ち帰らなければ、なんのために消費しているのか。

 

スタバだけやってるのが一番コスパ良いと思うよほんとうに。

さとみにはインターンとか向いてないと思う。

血迷って団体立ち上げとかしないように気をつけたいわ。

 

 

「悩んでいる その状態に安心している」

というのは私の常です。

 

でも、

自分自身が許せない揺らぎ、以外の部分になにか、何かあるのかな

と思っている。という近況でした。

 

なにかあるかなと思っています。地球にとってのメリットが。

 

 

一服中

 

瞳をみつめて、なにも感じられなかったときの、かなしみ

けむりが消えていく、自分の肺は満たされる、捨てられる灰

 

 

人を信じられない理由がわかった

私が裏切りつづけているから。

どんなことをしても、許してもらえるかどうか、愛してもらえるかどうか

試している

 

「遅刻して悪いと思わないの?」

 

ん〜

「 だってしてしまった時はもう切り替えるしかないし

相手の方が怒っているのに自分が悲しんでても仕方ないし 」

 

 

タレントの仕事は自分を研究しつくすこと。

可愛く見せる努力をすること。

 

求められたことをこなすのは当たり前

まずはそのクオリティを上げること、

その上でもっとやってほしいことはなんなのか、先回りすること。

 

裏方を学ぶのは裏方の気持ちを分かる出役になるためらしいよ。

 

 

「互いに認め合い、尊重し合う。強みをいかして働く」文化

920円の人と同じ仕事をしていてはだめ。

仕事をした上で、互いにフィードバックできるか

もっと良い場所にするために考える。

 

貢献度が見えやすい。

 

 

 上手くいかないことなんて山ほどあるんだけど、

それでも生きていける力をもうすこし。

 

 

努力論者だった頃、自分の頑張りの分だけ自分が好きになれたし誰かが好きになってくれてた

 

理由は何にせよ「頑張った分がその人のご褒美」になるものばっかり。

 

お金が理由で働くこと、それは本当に簡単なのか

ならばそうしてしまいたい。

 

退去する元気がないから放置しているのでゴキブリがわいてくる

ゴキブリも無からわいてくる訳じゃないんだけどね

 

過ごしてきた季節は、その空気と社会的意義とそして関係者は、

かたどる私 その外側にあり、

堕落とか発狂の末に見える走馬灯のよう。

 

自分がどうなろうと勝手にすればいいけど、

自分が誰かの何かになるために努力していた以上誰かしらの目にはいっている訳で

誰かにとって大切なものを思い出したときの景色の一部として

どこかを担っているのかもしれないと思うと

その責任を放棄することは その誰かに貢献したかった私の放棄で

高いところから見下ろした家々に謝るだけでいいのだろうか

 

4月7日だって何があった訳でもないのに

ただただタイミングで

気持ちを測る単位が存在していなくてよかった

 

何かを求めているのだとすれば、

「魔法をかけてほしい」

 

夏は引きこもりを治すのに適してないな〜と思って見上げる透き通る青

 

 

新しいスカートを降ろしたから、ちょっと素敵になった気がした

頭の良さとか知識量関係なく、男の子ってすごいな〜って思った。

というか、女子同士で話していてそんな話題でないよなってことが話題にあがる。

そこまで深い関係性を同性と作っていないってことも、もしかしたらあるのかもしれないけれど、それだけの問題じゃないと思った。

 

かっこいいと思うもの、素敵だと感じるもの、

人はそれを「価値観」というのか。「感性」というのか。

本当に個人の問題ではあるのだが、セクシャリティってあるな〜と思った。

 

人と関わることは同時に自分を写す鏡であって、

自分の知識量とか見えている景色とか、その色合いが対等でないと

目の前の人としっかり話せない。その通り。

 

最近同じ温度感で人と話せてないのかなって思った。

いつも少しずれているから、ほわわ〜〜んってしちゃうんだよね。。。

ずれていたとしても、多くの新しい人と関わっていた時ってあってそのときには自分はどう写っていたのだろうか。

すこしの”ずれ”によって負荷がかかることを、生活する上で当たり前のことを、重く受け止めすぎたのかもしれない。

 

何にせよ、交友関係って自分にとっては大きな意味がある。

いいな〜って思える友達がまだいることに感謝だなと思ったし、

彼らが羽ばたく瞬間をちゃんと見届けるためにも、力を貸せるときがくるように、

頑張ってみないとなと思った。

 

 

小さな、ちっぽけな、どうでもいい人間だからこそ、紡ぎだせるもの一つ一つの価値が大きくて

それが他人にとってどうであれ、大切な自分のために守らないといけない。

私は2016年の7月にいたらしい

休学して、なにもせずただただお休みしたい。

お休みって何かすらよくわからない。

地方とか海外とか行ってしばらくそのままでいたい。

環境とかあんまり関係ない気がするけれど。

 

やりたいことは確かにあるような気がする。

純粋な好奇心、楽しそう〜って気持ち、それをやってる人への憧れ、いいなあって気持ち、かっこいいなあっていう眼差し、

かっこいい自分になれるかもしれないという希望、逃避、

人から認められる喜び、認めてほしいって気持ち、承認されたい気持ち、

自分は誰かから愛されるくらいの価値があるんだぞって気持ち、

価値がある人間でありたいという向上心に似た気持ち、等々

 

でも軟骨にピアスあけたのは

私はマジョリティから外れても生きていける

って思いたかっただけだなと思う。

ママ怒ってたよ(笑)

 

もともとの資質と、幼少期の教育と、経験してきた環境と、今ある刺激

 

 

やり直したくなんかない

後悔は今の自分が悔やむと起きてしまうことだから、悔やんだりしたら過去の自分がかわいそう。

 

未来はまだあるって気持ちが何よりも私の背中を包んでくれる気がする。

今描けるきらきらを一つずつ掴んでいこう。

内側のどろは少しずつ捨てていこう。

現状の因数分解

 

「選んだ選択肢を正しくしろ」って真理にちかい強い言葉。

でも

なにを選んで良いかわからない人にとっては刺さらないし、適応しないと思う。

「私はあなたにこれをやってほしい、それがあなたのためだと思う」

それが最大の主張で最大の根拠なら、「社会人」を名乗らないでほしい。

 

 

「一人一人かけがえのない存在」「誰にでも使命はある」

そう思う。

だからこそ、自分の人生を生きる責任がある。

かといって

このままでいいんだ、とか、自分には価値があるから自分の思うことも価値がある、とか ひとりひとり違うから人のことは気にしなくて良い、

とかは、半分合ってると思うけれど本質ではない。

はき違える人がとても多い。

そうやって自信満々に自分にだけ正しい方程式を振り回す人のお陰で

歪んで伝わっていく。少しずつずれていく。

同じ論理を、信念を、握っていくことって難しいんだろうな。

 

 

「いい」とされること。「正しい」こと。「本質」。「真理」。

それを全て選択したらその人は「完璧」なのかな?

その人の効用は最大化されているのかな?

 

 

頭が良くなる瞬間って他の誰かの頭の良さに触れて、自分が使わないようなコマンドとかショートカットキーとか公式を使っているのを見たときかもしれない。

 

哀しみのなかで私は言った

 痛みに鈍感になることが大人になることじゃない
          でも自分の中に色々積み重なって、何かを受け止める緩和材は増えるよ

 

 

最初に戻ろう。

私はいますごく困っているしよくない状況にある。

でもそんな中で他者に感情をかき乱されて、勢いで自分の決断をしなかったことをスタンディングオベーションで褒めたい。おめでとう。

 

 

一年前の夏、目に映っていた景色に言葉と色と写真できりとられたような美しさを感じていたときのように、

日々はもう少し楽しくなるはずなの。

世界はもっと鮮やかで、広大なはずなの。

確かに、この前期、パステルカラーの美しさを求めてきたのは確かだよ。

だけど、今この光景は、ただかすんでいるだけよ。被写体がないもの。

 

 

残念ながらガソリンは無いみたいだ。性能も変わってないみたい。コックピッドも使えないね。コースもみえなければ、カーナビも壊れてる。

さて、どうしようか