温度感のある景色

自分のために書きます。

知りたいことを知れない大学なんてクソだ

 

でも何を知りたいかをはっきりさせるための知識すら自分にはなかったんだ。

そう思うと、なんとも悔しい。

 

3年前からわかってた。でも、それに対して「努力」する勇気がなかったんだと思う。

 

だって、泥臭いことだってわかっていたから。苦しいことだって。

 

なんだって一人きりで自分のために努力することほど辛いことはないから。

 

卒論の調べ物をするたびに、自分が大学選択をミスったことを思って

変な汗が出る。体温が上がる。

 

私はどこへ行ける?どこまで行ける?

真実を探すことを諦める方が先なのかもしれない。

自己防衛のために。慢性的な幸せのために。

北斗七星が欲しかっただけなのに

誰も私の人生を他に肩代わりして歩んでくれる人はいない

だから私はこの試練をちゃんと乗り越えないといけない

それこそ私の使命かもよ???

逆方向に強行突破じゃだめだった

正面の入り口も開いてないのさ

順番?順番ってなに??

 

いつも

ああ私がだめだった足りなかったって自己否定して

娯楽に逃げて活力を生んでなんとかその自己否定ループから抜けて、

そしたらもう向かう活力は残ってない

 

そんなループが嫌で、

ちゃんと本来の私の力を私の道を歩むために使いたくて、

瞑想も一つ知恵だなぁと思ったのにな。

 

見たことのない景色を見たいよ

同じ未来はうんざりだよ

 

また私ばっかり頑張らないといけない?強くならないと?大きくて賢くならないと?

もう頑張れないよーって声が聞こえる

ここで心の傷を可視化しよう!なんてしたらまた後戻り

我慢しなくていい呼吸を続けて

助けを外に求められるようになりたいね

それが今迫られていることなのかもしれない

 

 

強くなれ強くなれ 現実がもう一つの道しかなさそうに見えてきて、あと私が私にかけられる声はそのくらい。

でも

違う未来があるはずなんだ

 

 

北斗七星が欲しかっただけ

いつも立ち戻る術が欲しかっただけ

 

こんな人生どっかに捨ててしまえなんて絶対にしないしたいと思ってもしない

生きるために、生きていくため、この先長い人生を歩むための、試練。学び。学び大好きでしょ?

時間で鎮痛するんじゃなくて、

少しずつでいいから手術しような?切り開こうな?

 

 

今は無理かも

自己共感

頑張ろってすぐ思っちゃうな

いいよ頑張らなくても完璧だよ

面白いじゃんこの人生

味わい尽くせよーーーー!!

これは手紙

夏休みに普段と違う経験をして活力にしたい。瞑想で自分がどんな状態になるのか体験したい。体感覚を養いたい。それだけの気持ち。
想像したら批判するのは簡単。でも恐怖は無知からくるもの。
分からないものに対して反射的に拒絶する家族の姿勢は残念に思う。


母親の言うことを聞いても、母親が私の代わりに人生をやってくれるわけではない。誰も助けてくれない。母親は私の倫理のものさしではない。
だから私は自分一人でちゃんと選択を出来るように、生活をできるように、ならなければいけない。そうなりたい。自分を自分で助けられるように。


私は土台となるべきものがなさすぎる。ときどき私は他の人と比べて欠けているみたいな感じがする。だからすぐ影響を受けて疲れる。寝てしまう。逃げてしまう。それはよくない。私の意図とも違う。
情報のスピードと容量はどんどん速くなる大きくなる。それに疲弊している私も私たちも。疲れていることにすら気づいてない。情報の奴隷なのかも?
社会なんて本当は一人一人の人間の集合。得体の知れないものではない。でもみんな、分かろうとしない。お金のためなのかなんだか、目に付いた選択肢から選んでいるだけ。先人のコピーをしているだけ。そんなことになるのはつまらないし、私が私として生きる意味がない。社会をこのまま繰り返して何になるの?イノベーションを起こした人だけが社会の方向性を変える?
社会はこれからどうなる?人間はどこへいく?
残念ながら答えは誰も持ってない。答えに近づきそうなフレームを私は大学で得られなかった。悔しい。だから自分で情報を取りに行き、体験している真っ最中。
一人の人間として生ききること。
社会とか他者はなんとなく適合するためのものではなく、目を凝らして見つめ自分に学びをくれるものである。と私は考える。
日々の中で見つめ直し、意識し直す必要がある。生きていること自体を。
社会から遠ざかるために十日間行くわけではない。むしろ、社会でもちゃんと生活できるために自分と繋がる術を身につけないといけない。


家族と話し合えていないのは残念に思っている。
文化が生まれる瞬間に立ち会ったり、人の想いが文化になっていく過程をつくったり、する仕事がしたい。つくる人と楽しむ人の間に立つ仕事。具体的には編集者、ライター、Webメディア、広告関連業。
独立または他業界でも仕事ができるくらいの能力が身につく会社。
この二つを基準に就活を進める。
親に頼まれたからその仕事をするなんて無責任なことはしたくない。

 

 

友だちも私に考えすぎと言う。
でも私は考えてしまうのだから。その答えをとことん探してすっきりするまで、例え答えがなくても諦めるまで、周りの人は待つしかないのでは?
分かり合わなくてもいいが、それは批判し合い決別することではない。

 

 

 

 

 

 

 

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というわけでヴィパッサナー瞑想にいく

辛くても途中で帰る家がないっぽい

まず今は心も台風すぎる、、

 

 

最後に己を支えるのは正しさなのか

うちの家族は正しさに囚われている

誰があなた方に正しさを許容したのか

正しくない人たちが先へ行くのを、美味しいところを持っていくのを、知っているはずなのに

それでも正しさしか彼らが縋るものはないみたいだ

正しさのために身を粉にしている

正しさであることだけが彼らの誇りでそれのためには自分の感情などどこかへ捨て去ってしまったみたいだ

 

私は知っていたそういう家族であること。

でも元凶は祖父で母は人の心を持っていると思っていたのに。

少なくともその正しさから幼い私の鮮やかさを守るために教育費をかけたのではなかったのか

貯金をはたいたのではなかったのか

 

私は知っていた

だから私だけは感性を広げていくこと

思いっきり声を上げること

やめなくていいと思っていた

 

まさか、

まさか、もういいでしょと言われるなんて思ってもみなかった

 

 

うちの母は昔から、大事なことを寝息をたてている私の横でまくしたてる

言葉の「圧」だけが私に残る

 

 

分からないことは恐怖?

割り切れないことは悪?

 

そう善悪の定規を持ち出している時点で私も正しさに囚われている

もっと純な「正しさ」があると思いたくて仕方がない

 

 

 

変われない

変わらない

代えられない

なんど泣きながら自分に言い聞かせた夜があったのか

私はすぐ忘れる

ちゃんと愛されていたと涙を流したことを

私はすぐ忘れる

周りに人がいたことひとりじゃないと感じられたことを

私はすぐ忘れる

 

何度でも思い出すためには、

心はちゃんと柔らかくしておかなくちゃいけない。

こんなことで、こんなところで、

泣きながら、ボロボロに傷つきながら守ってきた心を

手放すわけにはいかないんだ。

いかないんだ。

 

 

 

自分の頭だけで考えてきた結果が「正しさ」なんだよね

自分で責任を取ってきた結果が「正しさ」なんだよね

それすら揺らいでしまったら壊れてしまう崩れてしまう

知ってるよ

なぜだか私もそうなってしまっているからね

 

 

2016年4月7日の池袋病院を最近よく思い出すよ

あの日ちゃんと門限に帰ったよね

1週間毎日看護師さんが年配のおばちゃんで「きれいにできてる」って言ってくれてその言葉だけで生きてたね

 

 

 

スラム街に行きたい大学生を見て考えた私たちの歪み

 

nlab.itmedia.co.jp

ふたつおもったこと

 

ひとつ、クラウドファンディングが普通の大学生にも使えるくらいのツールになってきたんだなーということ。

緩やかなお金の流れとしてきっとこれからも続く流れなんだろう

仕組みに入って稼がれたお金が緩やかな方に流れていくことへの、変化への違和感はあれど、転換期なんだろうなと思うし、じきに人々の行動様式も変わるの依正。

 

ふたつ、こっちが言いたかったこと

私は彼らの気持ちがわかる 気がする

「社長」みたいな"圧倒的経験"をしたい!という気持ち。

西成ではなくて、どうしてもインドのスラムをみたい。子供たちに夢を与えたい。

そう、言ってしまえる気持ちが。

 

私は、私たちは、方法を持たない。

「好きを仕事にする」生き方に憧れて、インフルエンサーの名前ばかり覚えて、自分が成功する像を思い浮かべた時あたかもその人らにならなければ、と思ってしまう。

これって「普通の幸せ」が見えなくなっているからかもしれない。

 

自分はまさかそんな劇的な家庭で育ったわけもなく、一番身近な親はそんな稼ぎ方をしていないにも関わらず、「夢を与える側」になりたいと思ってしまうこと。

成熟しきった日本社会が、働いても幸せになれない、ように写っているのか。ただ会社に入って稼ぐことがかっこ悪く写るのか。

 

「好きを仕事に」した人々は口々に自分の経験を語る。きっかけ、挫折、未来、でもそれらは結果論でしかない。

「好きなことがわからない」それが私たちが抱える違和感。

その違和感を抱いた時点で「好きを仕事にしている人になりたい」としか思ってない。「好きを仕事にしたい」と思っていない。この違いが伝わるだろうか

 

SNSによって個人の影響力が強まったと言えるのかもしれない。理想として見えてくるのは人ありきの生き方で、「なりたい」の欲望ばかりが積み上がっていく。

 

それは「実践なき思想」

「好きを仕事にする人になりたい」と思った時、

好きを仕事にする、と 誰みたくなりたい、の二つが隠れている

好きなことが見つからない時

誰かの人生をコピーするように「経験」を得にいってしまう。

 

思えば学校教育だって、実践はあんまり教えてくれない。

社会はこうなっていて、知らないと損をするよと言わんばかりの、教育。もしくは思想?

だから就職を前に、好きなこと=行動は捨てて、こんなことをしたい=思想を掲げないといけないように見える。

でも多分これって本質じゃない。だって、何か叶えたい夢を叶えるために必要なのは「実行」でしかないから。「〇〇ができるようになりたい」とはっきり言えている人は就活生に何人いるのだろうか。

 

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ペットボトルの液体を全部床にこぼしてわーーーーー

って言いたい。

 

 

ないもの全部手に入れられたら安寧や信頼がくるなんてそんなの幻です

でもそうであれば!って願っていられた方が幸せなんじゃないかなってよく思う

 

 

その人の物語にしてしまったらその経験の価値はもう誰かのためのものになってしまう

絶対に嫌だ

それがアイデンティティになってしまう絶対に嫌だ

 

楽になる とは?

安寧とは?

信じられる人?

この世すら?幻?

私は賢いので、誰かが助けてくれるなんてことは起きないって知ってるし 誰も巻き取ってくれないし かといって全て自分の責任でもないのも分かっている でも、わかっているのと受け入れられるのは全然別の話だ。

命を常に楽しめるわけじゃない

その時起こっている現実と

自分が捉えている今は違う。全く違う。

 

現実を見て、他者の現実を見て、それだけに生きることもできるし、

自分の世界のために生きて死ぬこともできる。

 

私は、自分の世界を守るあまりに現実をおろそかにしすぎ。

自分の世界を守るために現実で死んでしまっても気づかなそう。

それは、プライドと呼ぶものかもしれない。

いつだって「頑張ってきた」のは自分の世界を守るため、それだけでしかない。

現実は何も変わらないのに。だから誰にも気づいてもらえないのに。

 

 

私たちは、生まれた時から世界がそこにあって、

「こうあるべき」「こうなりたい」がたくさんあって

あれも欲しい。これもできるようになりたい。

そうやって大きくなっていく。世界に適合していく、ように見える。

それはある程度必要だと誰もが知っている「もう小学生だもんね」

いつからか、わかる。そして選択をせまられる。

「もっと上のランクのものを持つ?」「これをキープする?」「もしくは作り出して観る?」

社会への責任か、血は争えないのか。「普通」になりたくて、「幸せ」になりたくて。

その「幸せ」がどんなタイプかはどうでもよくて、幸せになったもん勝ち。

感じてるかどうかはどうでもいい。

 

降りた方がいい舞台はたくさんある

たくさんの人が降りた舞台もある

それはイコールじゃない

 

同調圧力も嫌い 

 

ただ一つの真実なんんてないし

純度100パーセントなんてない

あるものは、ドロドロでぐしゃぐしゃで影響を受けまくったそれ。

それで以上でも以下でもない

死にながら生きて生きながら死んでいくのかも

 

私には許せないことが多すぎる

完璧なものを定めてしまえばいいのに。

複雑で常に動いている生きた人間を信じてしまうことにしてしまえばいいのに。

書物の上の、動かない文章だけを信じて、ばかみたい。

 

現実に生きろよ

それが大人になるってことだよ

死んじゃだめ とりあえず生きろ?

 

そんなことをW杯を見て、友達と次回の試合を生で観る約束をしながら考えている私

なんなんだ 狂気か