温度感のある景色

自分のために書きます。

選択と制約

”自分の人生だけど自分だけの人生じゃない。”

「自分って不幸だ」って思うときによく思い出すこと。

私は私が生まれてきた意味なんて最初は無かったと思ってます。

ただ私の生まれた世界と生まれなかった世界は決定的に違っていたとも思っていて。

私がやってきた委員長や舞台の役柄や役職とか、私がなったからなれなかった人が生まれている訳です。

違う観点だと、私と友達になった人や何か関わった人にとっては、私が死んだニュースは他人事ではなくなる訳です。あーあの子だ と。

その文脈からいくと、何か結果を出すことであったり、何か人との関係性を作り出すことは「生きている意味」を生み出すことそのものなのかなって。

 

でも生きている以上ずっっっと「生きている意味・価値」を生み出しつづけないといけない という事実はあまりにも重く苦しいので

誰かにとって必要不可欠な「存在」になりたい

「存在」だけで「いる」だけで認められるように

とか考えて泣くわけですね

 

ちょっと話を変えます。

人生は選択の連続 とよく言います。

例えば学校。受験をするとか志望校を決める作業は自分の自由であるようで、世帯の所得や親の指向によって制限されています。

 

大学生になってからのこの半年、私はこの「制約」について忘れていたみたいです。

それは先輩たちが何もかも自分で成し遂げてきたように見えたから。

私の場合の「制約」は今は「寮」とか

「家との距離」「家業」「一人っ子」「母子家庭」「収入」「女子大」

とかになるのかな。

それについて自分だけが不幸だと悲観するのは簡単。でもどの人もなにかしらあるんですよね。

これも世界は無限じゃない みたいなことと同じで、

なんにでもなれる! と思っていたところから

だんだん世界が「狭まっていく」ことを自覚できているかどうか

「狭まった」「制限された」世界をどれだけ広く感じられるか。もしくは、なんだろ...

 

制限されているから幸せが小さくなると考えるなんて心が狭いよねと思います。

でもこれも「大人になる」ことのひとつなのかな

結論が「諦め」とか「選択肢が限られていた」じゃなくて

自分の制約を”承認”して「選択」できるかなのかなって。

 

つづく