ここと向こう
今日は違う世界を生きてきた方とお茶できてほんとうによき日でした
中高で感じていたはずなのに最近忘れていた感覚でした。
銀座が庭な人にとっては格調高い場所ともおしゃれしなくちゃとも思わなくて、ただ「当たり前」にその場に合う服や仕草や行動をしている。
新宿や渋谷で待ち合わせをするのはもう「当たり前」のことだけれど、関西や九州から来た人にとってはTVの中の街、観光地。
生活の質を上げることは中身や精神的満足感がとても大事だけれど
豊かさだって外せないものだと思う。
今度銀座のスタバ行ってみようと思った。同じスタバでも確実に違うもの
この人はこういう人 人はいつだって「判断」する
”いいとか悪いとかじゃなくて””いやいいと思うよ””否定してないよ” と口にしつつ「判断」する
それこそ息をするように。
同類 すごい人 金持ち 格下 格上 あいつは装ってるだけ
自分と違う人や評価していない人が多くいることはその人にとってストレスなんじゃないかなって。
それが問題意識とかにつながっていって
コミュニティが形成されてって
一緒にいて心地いい人たちと一緒にいればパフォーマンスが上がって、化学反応がおきて
「みたい世界」がだんだん作られていく。(ように感じる)(だけ?)
でもそれって「見ている世界」が移動しただけなのでは?
なんだ 「世界」って自分のいいように作り替えられるものだったのか
自分の一番心地よい世界に生きる事が「幸せ」なのかもね
お!幸せの定義がまた変わった!
メンヘラの言葉で「自分を宥めて甘やかしてご褒美をあげて」っていうけど似たようなことなんじゃないのかな ってさっき思った
見たいものだけ見るのは簡単
なんか「世界」の話は巡りめぐって毎回同じところへもどってきてしまう気がしますがいくらでも”考えて””言語化”したいです。
だって気になるのだもの。それだけだよ。
別に人と共有したい訳でも、議論したい訳でもないような気がするな。
でも半ば義務だと言われたかのように感じた事を言語化しなければって思っているかもしれない。それが繊細になるとか言葉と仲良くなるとかとは同義ではないかもしれないけれど。
まあそういう時期なのかなってことで。
つづく