温度感のある景色

自分のために書きます。

簡単な感情ばかり数えていたら

あなたがくれた体温さえ忘れてしまった。

アイネクライネを聴きながら。題名はドーナツホール。

 

 

SNSって怖い。怖いって言ってしまうのも安易。

自分は4畳の部屋にいるままで

優秀な高校生の考える事も、医学部浪人生の言葉も、芸能人の日記も、

得られる情報量がいっぱい。

手に取るように分かる気持ちに胸が苦しくなって、

漢字ばかりの文章の裏の思考回路を汲み取ろうと頭を回転させて、

なんでも分かるような気持ちになってしまうし、物事の二面性や多面性を考えることになる。

天上人の目、鳥の目を持てた気分になる

 

 

でも、何も分かってない。

「それ」は所詮ブランディングのための作り物かもしれないし、

誰かに見てもらうことだけが救いかもしれない。

それだってスマホから見る私にはわからない。

もしかしたら本人すら自覚していないかもしれない。

 

 

自分の目でみて、触れて、それでさえ分かるかどうか そんなことばかりなのに。

「情報」はどこまで機能するのか。

自分の気持ちすら分からないこともあるというのに、SNS上の言葉でどれだけ寄り添うことができるのか。

 

 

高3の時町田のブックカフェで「ああこの本棚の本全ては一生かけても読めないな」って思ったときと同じ

泣きたくなる ぞわっとする でもそんな瞬間こそ生きていることを思い出させる

 

私を見ていた目 私が見た目

正しさ 正義 自然 論理

滑り落ちて行く言葉、懸命に探す言葉、丁寧に選ぶ言葉

ここにいて、ここにはいない

 

「どうしてやりたくて何故私が何のメリットがあって誰のためにどうやるのか」

論理武装で行動の全てが説明できればそれでいいのか

自分の欲・エゴがあることを認めればそれは正当化されるのか

そう生きている人だってどこかで説明しきれないもののために、むしろそれを隠すためにやっているみたいなところあるはずだ

 

一日一日を大切にしたら知らぬ間に春休みは終わってしまって

よくわからないままに息をしつづける。

生きる意味なんて誰もしらなくて、知っていても決めたにすぎなくて、死んだらどうなるかは誰も教えてくれない。

同じ人間は一人としていなくて、それは生まれた時からなのか育て方なのかすら、誰も証明できない。

証明できない曖昧さがあるから生きる意味があるのに、論理を組み立てられると多くの人を納得させることができる。

 

誰にも会わなかったバレンタイン。

お菓子を作ることが無心になる一つの手段で、必死に作っていたあの頃。

数えられない感情はいくらでもあったはずなのに、今は一つの風景としてしか記憶されない。

ならば一つの風景でしかなかったのだろうか。一つの感情しか持っていなかったのか。それと同じなのか。

 

分からないことだらけだ。

でも、「分からない」で終わらせたら何も起こらない。

分かろうとしたり、分からなくても見る から面白いんだ。

これは昨日思った事だけどね。

 

 

もやもやした夜だね

つづく