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温度感のある景色

自分のために書きます。

体温と気温が同じになったら

 

『リップヴァンウィンクルの花嫁』という映画を二回観ました。

ずっとみたくて、意図せず時間があったので観て、パンフを買い、原作本を買い、読んで、もう一度みて、サントラを買い、聴いています。

岩井俊二作品。

 

みていることしかできないのです。当たり前だけど。

晴れた日に吹く風がとても心地よく、そのまま吸っていたくなるラスト。

自分には訪れようのない世界のような、でも現代社会を写していると評される。

作り物の偽物の偽物はほんものに近い、みたいな。

 

自分のことを理解してほしくて、理解してもらえればよくしてもらえる認めてもらえると思っている私は、

人より通る高い声で、懸命に話すことがおおくて

もしくは暗い あたかも自分だけが辛いかのような文章を書いて

今までで一番 言われて嬉しかった忘れられないであろうことについて話したい気持ちだけどやめておこう。

なんかそれが原因なんだろうな今のこの感情とかも。

言語化されなければよかったし、言ってくれた人もなんならそんなに考えてなかっただろうし、だけれど自分の感覚としてその言葉は当面残ってゆくのだろうな。

自分の言葉じゃないんだから気にしなければよいのにね

 

 

「書く」ということ すごーく好きなわけではないのかもしれないなと。

多分私はライターにもコラムニストにもなれない。ブロガーにはなりたいけど。

ただ、自分の中にある感覚、誰にでもある感覚を、書くことで外に人に分かる形で出せたとき 自分が世界に生きている感じがうれしくて。

中学の現代文の授業で、授業なんてただ座っていただけで、でもテストで箱を埋めるときに自分のなかから言葉が溢れる感覚があって。限られた時間で枠内に黒鉛を埋めて行って、点数として評価されて。「あ、あってるんだ」

それから先生の言った事一語一句書く事で、そのヒントが生まれるってわかって。

そのヒントはそのままにしておくだけで、来るべきときにちゃんと言葉が繋がっていく。そして評価される、必ずといっていい。

評価はその内容に対してということより、説明できていることに対しての意味合いが強いのだろうけど。

あれを読んだ先生方は他の先生より私を理解しているような気がして好きだった

 

たしかに書くことは好きなのだ

でも本当に好きなのか分からないの。

それしかしらないから好きって思っているだけなのかなって。

幸せを感じる方法も1つしかしらないような気がするから苦しいのと同じようにね。

 

でも、好きなものを信じられないことって辛いことかもね。

確かに幸福で快感なのだから。

その定義の擦り合わせすら、満足にできていない。

人のお時間を頂戴したとして、その時間に”貢献”する気がないから。

”貢献”を「意識的に」できる人が人間性含めて評価される一つの基準。

 

なんか、失ってもいいとはいえ、無駄にしてもいいとはいえ、

マイナスになったらおしまいだよなと思うし

動けなくなるだけっていうね

 

過ぎていく時間と、日常と、享受しているものがありながら、

止まることは

できているように見えてできていない。

ならば、

望みはなあに?