ママは教祖様
生まれて初めての宗教はきみです。
っていう歌詞があるけど、
多くの人にとってはじめての宗教は親なんじゃないのかな
私にとっての宗教は母である。と思った。
教祖がいたから、その教祖に従えないのならば別の教祖を探さなければならないと思っていた。感じに似ていると思う。
母という教祖のどこを信じて何を批判するか、私はそんな風にどんどん思想家になっていった。
もし親がふたり揃っていたら、そんなどうしようもない意味も無い仮定のはなしをすると(そして自分の特異性を無意識に主張してしまうと)
親同士夫婦でも喧嘩する。考え方が違う。だからふたつの色が混ざり合う。
母をみていた私にとっては、母を批判するおじいちゃんは敵。敵から攻撃される理由を見せてしまった私は守られ、またその隙があったことを叱られた。
真っ向から否定され、出て行けといわれ、出来る子賢い子可愛い子といわれ、だからもっとがんばれと。まるで躁鬱病のような言われようだとしか思えない。
でもそれが私の信じるべきものだった。
でも自分の中のナレーションの方が大きくなって、人に勝つという信条に従うために、教祖を変えなければと思った。
だから色んな人を100%信じようと努力した。
全て受け入れられる考え方を探った。
ほんとうは気づいていた。ありがちな話。
気づいてからもさ、なかなか上手くいかない訳ですよ。
この期間はきっと長いのだろうと覚悟したものの、
みんなには宗教があるように思うわけで。
もう何も信じられないような気がしてしまって。
疑心暗鬼になり、内に閉じこもりはじめたら、今度は自分の考えばかり正しいような気がしてきて。それがすごーーく嫌で。
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なんでこんなことを思ったのかというと
『知性だけが武器である』っていう本を今日手にとったんですね
知性だけが武器である / 白取 春彦【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア
(AmazonのURLにしないことがせめてものあがき)
もうね、「知性」って言葉に弱いんですよ。
表紙の色が白黒銀なのがいい。
こういうhowto本は今とりあえずいらない気持ちなのに買ってしまう。
「知性」「知的」その言葉はとても真で、とても綺麗に思える。強く思える。理想に思う。
「知性のある、美しい子になるように」と名付けられたとなんども聞いた。
この字が好きだと何度も聞いた。
生きることに意味があるのだと、その度に思うのだ。生きなければいけない、それを達成するため。
そしてね
私もきっと宗教をたちあげなければ、教祖にならなきゃと思っているのだなと思った。
誰もいないなら、自分のために自分は教祖にならなきゃと思っている気がする。
でもきっと違うんだろうなと。
揺らがない信仰をつくらなきゃ!と思うから苦しい。
そういうことじゃないんだろうな。
とりあえず何かをちゃんと素直にうけとること
受け入れても自分は崩れないと知ること
それが本当に分かるようになる経験がきっといつか訪れるはずでその時は今やっとの思いで保っている立ち方すら崩されてしまう
その経験を”取りに”行かなきゃ。
と今思いむずむずしてますってお話しでした。
最近、ふと真理が降ってくる瞬間がおおくて
そのときにちゃんと残しとかないとすぐ逃してしまう
なんかそういう時に使うTwitterをちゃんとほんとの意味でふぁぼってくれる人を集めないといけないなと思っています。
「意識くらい高いところに置かないと夢はみれない」