温度感のある景色

自分のために書きます。

これは痛みであって苦しみではない。

それを間違えてはいけない。定義を、間違えてはいけない。それはいつしか自分の感覚であったと保存されてしまうから、即座に判断しなければ置き換えることが難しいから。

 

”みんな”が持っているものが私の手元に無くて、だから欲しくて、その持っていないものがすごく良いものに見えて、

じゃあどうしたら私のものになるんだろう。

自分で取りに行くからには一番良いものが欲しい。

欠乏感からくるエネルギー。

 

ああ、今までって、私の当たり前って欠乏感からくるエネルギーだったな。

やだな

もっと純粋なところから、何によって私は動くんだろうか。

自分で自分をなだめて、自分に発破かけられるのはもうやだな

一人で、他人と並ぶために関わるために一人で頑張るのは、疲れたな。

そんなわがままな私を優先させてあげたら、

目の前に目標がなくなり、何も頑張らなくてよくなった。そしたら、やっと生きているだけで良い人間になれたはずが、生きてる理由も意味も、朝起きて夜眠る意味が、食べる意味が、なくなった。

あれ?

とりあえず空虚な時間にネガティブになりたくなくて、良さそうなものにお金を使って、ああこんなものを味わえる自分!って思ってみたりして、

でもこれは誰のためなのかな 

 

結局、そのままでいいんだよって言ってくれる人が欲しくなった。

私は私にそのままでいいよって言いたくなったから、それを後押ししてくれる人が欲しくなった。

それを、”みんな”がそれを、言ってもらっている一番の場所は、家族のように見えた。

だから、家族が私の今年のメイントピックだった。

 

”みんな”って誰だよ そんな人どこにもいない、それはわかってる。

一般化されたものそのものにだっていろんな部分があることをいろんな可能性を削いだ概念になってる偶像だってわかってる

それでも、やっぱり、

羨ましい

自分の持っていない「当たり前」が。

 

give&takeじゃない関係性があるなんて羨ましい。

 

私だってずっと愛されていて、だってそうじゃなきゃ今の私になれてるわけがないんてことはずっと前からわかっているし。満たされていないこの環境は、ここまで死ぬ気の血を吐く努力をしてる人たちと同じ屋根の下住んでるって知ってる。

でも、だからって私が人並み以上に頑張らないといけない理由にはならない。私にとっては、それは理由にはならないどうしても。

 

私はこの痛さを、彼らの論理に従って「今私が頑張ってないからいけなかった」ことにはしないぞ。それと同時に、私の論理に従って「なんでお祝いをしないの?食卓を楽しまないの?家族団欒しないの?」とは彼らには言わない。

じゃあこの感情は、痛みは、どこに行くのだろうか。

 

明日ちゃんと早く外に出て、なんか素敵なランチ食べよう

そう自分を慰めたところで、違う。違うの。私は誰かと一緒に食べたかったの。お金にものを言わせて一人でやりたいわけじゃないのよ。

 

 

 

私が今目標設定ができてなくて、セレンディピティを待つ!みたいな結論しか出せていなくて、結果として何も残せなかった一年を過ごしたことと、

今話してきた一人では埋められない寂しさと家族、の話とは、

全く別の問題で、いやもちろん同じ世界で起こっていることではあるけれど、どちらかが先に解決したらどう、って話じゃない。

本当に起こっていることはきっと一つなんだろうけど、でもごっちゃになるから、別の問題として捉えて処方していきたい。

 

 

今年面白かったポイントは、こういうとき逃避する先が、本でも音楽でも映画でもなく、食と化粧品だったところかなあ

 

 

私は別に一人じゃないし、この世界は素晴らしいし、自然は美しいらしいし、人工物も素晴らしくて大好きだし、

でもやっぱりクリスマスケーキが食べたかったなあって。お誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも欲しかったなあって。私が自分で言わなくてもやろうとして欲しかったなあって。

それが悲しいの、寂しいの、痛いの。うん。そうなんだ。そんな感じなんだ私、今。