スラム街に行きたい大学生を見て考えた私たちの歪み
ふたつおもったこと
ひとつ、クラウドファンディングが普通の大学生にも使えるくらいのツールになってきたんだなーということ。
緩やかなお金の流れとしてきっとこれからも続く流れなんだろう
仕組みに入って稼がれたお金が緩やかな方に流れていくことへの、変化への違和感はあれど、転換期なんだろうなと思うし、じきに人々の行動様式も変わるの依正。
ふたつ、こっちが言いたかったこと
私は彼らの気持ちがわかる 気がする
「社長」みたいな"圧倒的経験"をしたい!という気持ち。
西成ではなくて、どうしてもインドのスラムをみたい。子供たちに夢を与えたい。
そう、言ってしまえる気持ちが。
私は、私たちは、方法を持たない。
「好きを仕事にする」生き方に憧れて、インフルエンサーの名前ばかり覚えて、自分が成功する像を思い浮かべた時あたかもその人らにならなければ、と思ってしまう。
これって「普通の幸せ」が見えなくなっているからかもしれない。
自分はまさかそんな劇的な家庭で育ったわけもなく、一番身近な親はそんな稼ぎ方をしていないにも関わらず、「夢を与える側」になりたいと思ってしまうこと。
成熟しきった日本社会が、働いても幸せになれない、ように写っているのか。ただ会社に入って稼ぐことがかっこ悪く写るのか。
「好きを仕事に」した人々は口々に自分の経験を語る。きっかけ、挫折、未来、でもそれらは結果論でしかない。
「好きなことがわからない」それが私たちが抱える違和感。
その違和感を抱いた時点で「好きを仕事にしている人になりたい」としか思ってない。「好きを仕事にしたい」と思っていない。この違いが伝わるだろうか
SNSによって個人の影響力が強まったと言えるのかもしれない。理想として見えてくるのは人ありきの生き方で、「なりたい」の欲望ばかりが積み上がっていく。
それは「実践なき思想」
「好きを仕事にする人になりたい」と思った時、
好きを仕事にする、と 誰みたくなりたい、の二つが隠れている
好きなことが見つからない時
誰かの人生をコピーするように「経験」を得にいってしまう。
思えば学校教育だって、実践はあんまり教えてくれない。
社会はこうなっていて、知らないと損をするよと言わんばかりの、教育。もしくは思想?
だから就職を前に、好きなこと=行動は捨てて、こんなことをしたい=思想を掲げないといけないように見える。
でも多分これって本質じゃない。だって、何か叶えたい夢を叶えるために必要なのは「実行」でしかないから。「〇〇ができるようになりたい」とはっきり言えている人は就活生に何人いるのだろうか。
このことについて、私は本当にnoteにできるくらい(この言い回しもおかしいけど)、ちゃんと書けるようにならないといけない気がしている。
なぜならこれは私の問題だから。
ずっと誰々みたくなりたい、憧れだけを原動力に生きてきたから。
誰々はどうしてこんなに良いのか、そればっか観察してきた人生だから。
誰々ちゃんはこうしていた、って比較され続けてきたから。
でも、重要なのは、他者じゃなかったと気づきつつあるから。
気づいたっていうと過去が間違ってたみたいだけど、そうではなくて、変化しているだけなんだけどさ。
私が私である重要さを守ろうとして、それが少しずつ終わって、私が何を手にするのか、どんな実践を重ねていくのかに興味が移っているだけ。
わーーーー頭よくなりたい。ふわっと繋がった事象をちゃんと言葉で繋げられるようになりたい。