温度感のある景色

自分のために書きます。

つま先立ちから片足立ちへ

 

足の裏を全て地につける
バランスが取れていないのを悟られないように
口笛を吹くの

重心が少し上になって

それはつま先立ちしていた時と同じで

支えはたぶん横に欲しい

 

やけにお金のかさむ散歩1日目

出発わずか30分後の波乱

いやこの未来はみえてたでしょ

 

 

意味のないことを考えている自分に気づく

でも意味があるかないかは誰が決めるのか他者なのでは?もしくは他者の目線を持った自分。

価値を出せるかどうかなんて、他者ありきの基準

なんでこんなこと思ったかっていうとね、車窓からみる家々での暮らしを、私本当の意味では理解していないと思ったのよ

私がその場所にいたらどうなのか、今からそこに溶け込めるのかって、「理解」に含めて思ったの

でもたぶん認識して否定しない、ところまででいいんだと思うんだ「多様性」って。

 

 

くわっ

 

まじで頭がぼーっとしている

普段と違う枠組みでいいなら普段の生活はなんだったんだ?

 

いや結局この土地選びも「ないものねだり」だなって。

 

疲れてて散文しか書けねぇな。

雨に降られたの辛かったな そして歩き過ぎなむやみに

 

 

いつだって初めてみたいな顔をしてくる春は可愛い

ブログなんて書いてるやつみんな自意識過剰だ 

みたいな文章を見た(読んでない。見た)

上等。

 

 

高校三年の時、あの逼迫した日々、

少しでももっと夢を大きく描ける場所があればよかったのかなと考えて

いや、そんなことは起こり得なかったのだ、と納得をさせる。

大学生だからこそ学問できるはずなのに、私このまま学問に触れられないまま死ぬのなんて嫌なんだけど。

高校三年くらいからずっとやりたかったことをやっている人々はまあ、まあ、羨ましく見えるものよね。

この1年間、本当にあの1年前から私の世界の見方は刻々と変化していて、

今考えると訳がわからないこともたくさんある。

でも多分今回のことで、また1年後確かな変化が起こるのだろうなと思うと

ワクワク。

春の初めの京都はいつだって私を連れて行っちゃうんだから、もう。

 

でも、その変化を一定の距離から見ていてくれる人が何人もいて、

私はその人たちからの視点を確認するたびに、生きていてよかったと安堵する。

過ごす時間の長さじゃない。まなざし。

 

 

 

私はどうしても越境が好きで、どうしても混沌が好きで、

ずっと場にいられたらどれだけいいだろうと思ってしまうけれど、

それは違う。

場の豊かさは、構成している人それぞれの自分史によって作られていて、

その自分史は彼らが一人であるから養われたものなのだ。

え、

じゃあ、

私は?

って不安になってみたりね。

みんなのために、なんて幻。

自分のため、もはや無私の探求こそが、世界のためになるのだ。

まだそこまで力を持って言えないけれど、でも本当に「そう」なのだと思うよ。

でもだから私もそれに習わないといけない訳じゃない。

面白いよね

 

足元がしっかりしない、視界もはっきりしない。

自分の殻を強固にしてしまえば不安に駆られることもないのに。

内側を見つめなければ、外側の素敵さに酔っていられるのに。

それらの愛おしさを本当の意味で理解できてないから私はこうして残そうとしてしまうのです。可愛いでしょ。

 

誰かの言葉を信じたいという点で姿勢は同じなのかもしれない。

でもその誰かの言葉を数えきれない賢者が精査していて、

自分も疑いの目を持って検証することが尊いのかしら。

私のように、自分の体験しか分からないのなら社会はこんなに大きくならなかったものね。

でも果たして一生分よりも大きなものをつかもうとするのは人間の傲慢なのではないですか?

いや多くの人とわかり合うということに一番近いことは同じものを同じ見方で見て同じ意味を感じることなのかもよ。確かにその点ではとても有益ね

弱さなんて誰しも持っているのだから比べるまでも見せびらかすまでもないのかもしれませんね。

だって誰の人生が一番重かったかなんて誰からも決められないのよ。

 

 

「知」ではなく「智」が扱われた場

 

 

 

とかく、自分の人生を歩もうと、自分のことだけをまずは考えようと、思うのですよ。

すぐ”みんな”に会って構って欲しくなるから。

すぐ依存したくなるから。

すぐいなくなりたくなるから。

不安になって何者かを目指したところで、誰かの手垢のついた称号しか得られないのなら、

何度も訪れる春の桜のためにずっと場所取りしているのと同じでしょうから。

 

 

情報過多の東京にいたから、京都に行けたのよ。

全ては起こるべくして私が招いた気づきのための事象なのよ。

 

信念も、本質も、どうでもよくなった こう言うのを実存主義っていうのかな

当たり前のこと、

例えば電車に乗ったらあの"東京”につくということ

よくいくあの場所はあの"渋谷”ってこと

この機械はMacbookAirで、iphoneXで、

今日は2018年3月の2日

 

必要なことは人の波の中で自分の行きたい場所、好きな人がいる場所、安全で安心な、今後の生活が約束されるか場所にたどり着くこと、もしくは、自分で生活を作っていける用意を整えること

 

 最近すごい思ってるの 離人感とでもいいましょうか

当たり前すぎて、その当たり前に自分が無自覚に乗っていっていることの

何だろうな 「不思議さ」?「気持ち悪さ」?

つまりは、多分、鈍感にならなければ、いろんなことを疑わずに不感症にならなきゃ、普通に生きていけない ってこと

 

びっくりするよ

私はもう立派に21歳なんだなって思って びっくりする

ただ自分の感情に素直にいるだけのことがこんなに、一般的に?客観的にみて?、こんな感じなんだなって思うとびっくりする

 

情愛とか馴れ合いとかわからないけど

伝えたいことを言葉にして伝えるだけのことがこんなにも、こんなにも、

愛おしく、切迫していて、醜くて、切実な、瞬間的なものであることに

びっくりするよ

 

生きていくって言うほど美しいものじゃないなって思って。

何も、何の観念も無くなってしまえば、何にもとらわれないで、生きていこうという試みは

ただシンプルなことであるはずなのに

無理なんだなって

無理なんだと思う。

 

人間は社会的な生き物で、自分の食い扶持は誰かからのお金で確保しなきゃいけない。自分以外の人のことを想って、思わずともシステムに乗っ取って、何かしら生産的な行為をして、無自覚に、無意識に、意志を持っても持たなくても、

「仕事」っぽいことをして、

生きるしかない。

 

美味しいものを食べたり、ちゃんと寝る場所があったり、

好きな人と、嫌いな人とも、関わっていくために。

 

私は少し、少し、夢を見すぎているんだと思う。

理想を夢見すぎているんだと思う。

私自身が私一人分だって、意識的になれないことに、出来上がってしまった社会に、うんざりしてるんだ。

媚を売って、愛されたくて、仕方ないんだもの。それを正当化しなきゃ、奈落の底に落ちてしまうから。

みんなと一緒にいられなくなってしまうなんてそんなの嫌よ。みんなと一緒にいられること以上に優先させたい自分の信念なんて無いもの

 

 

信念なんて、本質的かどうかなんてどうでもいい

持続可能じゃなくたって良い。生きやすいシステムに乗っていても良いよ

生きやすければ何でもいいの

あなたが生き続けることが、この世界の豊かさなの

ただてめえはてめえの幸せを一番に考えてほしいのよ

あなた自身の幸せはあなたが一番希求していいものなのよ

 

 

 

 

今、私はただ、みんなが、良い夢を見てほしい、それだけだな それだけを祈るよ

 

 

 

桃源郷があるなら、私の好きな人たちが、全部別々で隣り合った部屋に住んでいてほしいな

さとみはさとみの笑顔をみんなにあげたい。

 

鼻の奥がツーンとしてきた

みんな幸せになってくれお願いだから、頼むよ

優しさってなんだ

優しさって相手あってのことのような気がして

それは愛ではなかったのではと思ったり。

好きだった人のことを地球が太陽の周りを一周回って、まだ好きだと気づいてしまい、仕方ないからそのまま持っていようとしていたのに、夜がそれを後押ししてしまった夜でした。

好きな人のことを好きすぎ問題・一途すぎ問題は未だ解決しないのですが、

まあ傷つきたくないなんてのは甘えでつまらないので、

好きな人に堂々と好きって言おうと思うのでした。

今一番可愛い20代がどこへ行ってしまうのか、誰とどう過ごすのか、まだ何もわからないけれど、

あんまり先のことばかり考えず、

今、私の人生を、それだけを第一に。

 

その人に関わらず、私の周りの人たちは男の子も女の子も本当にいい人に囲まれ恵まれていて、彼彼女らにちゃんと愛を注いでいきたい。

出会っては、去って行く、でもまた出会う、そんな感じ。

結局は関係性の中で生まれゆくものこそ尊いんだと思ってるから。

 

二人の間にあるものをちゃんと大事にしたいんだ。

距離0だけが良いわけじゃないから。

ゆーて今は距離遠すぎね!!!つらみ!

 

言葉を尽くして

別に私が繊細だとか言いたいわけではないということを最初に申しておきたいと思います。

繊細さに程度などないかもしれないけれど、どうしても私は比較があるように思えてしまうから。

 

 

自分の多面性に自分がクラクラしています。

自分が惹かれるものの多様さとも言うのかもしれない。

自分に酔っているとか、もしかしたら自意識の過剰とかそういうものかもしれない。

とにかく、理想とするものが色々とありすぎて、その場その場で好きなものが変わっているような感覚すら覚えるのです。

あと、思考の発露が一方向にしかできなくて、外でキャラクターが変わらないって言うのもあるかも。

極端に明るく能天気な自分と、一番孤独で一人ででも満たされた自分と、かけ離れた二つが一番多く自分に出てくるものだから、クラクラするのかも。

 

表現って難しい。

感じることはいくらでもあり、感じたことに言葉を当てはめることまではすなわち語彙力の問題な気がしていて、いくらでもできるのに、

それを自らの意思として、主張として、または創造物として、表現するのってめっちゃ難しい。

表現が当たり前だった時期もあるかもしれないけれど、今は違くて、表現ってすごく難しいものだ、と思う。

だっていくらその人個人にとって最高の至高の表現が完成したとしても、それが受け取る人に感じたものと真逆の主張として捉えられてしまったら元も子もないから。自分が感じていることと近しいことを人に伝えたいとした場合の表現、ということになるのかもしれないけど。

 

彼の彼女の姿勢、一番大切にしているものは無自覚で、無自覚な振る舞いだから槍を向けられたように思う時もあるけど、

でもやっぱり、そこで、痛い!傷ついた!って言うんじゃなくて、その人がなんの姿勢をとっていたのか見るべきだと私は私に課したいよね

もしかしたら抱きしめたくて手を伸ばしただけかもしれないから。

関東で雪が降るのはシーズンに1度くらいだよね

誰とも本当には繋がれていないじゃないか。その証拠に今この瞬間誰も私のことを気にかけていないじゃないか。

と思う時と

世間から切り離されて、自分から世間を切り離して、時間軸にお惑わされないでいる瞬間が何とも言えず穏やかで、心地よく、この時こそ自分は自分である

と思う時と

どちらも私。

 

今期も単位を落とそうとしている2授業分

いつも折り返してからやりたくなくなる。その瞬間他に大切にしてたいことや、どうしても寝ていたい気持ちになったりとか、まあそのような、自制心があればどうにかなりそうなことでもありつつ、そうでないとも言える。

その波から抜けて、社会に出てやっていけるのかな?とふと不安になったりする。

 

どうなんだろうね

そんなの誰にもわからない。

未来の不安と繋がったってマイナスなことしか溢れて来ない、今と繋がることが最もパワフルだと、私は「言われて」

それは「言われた」だけのことで

でも信じてみたりする。

 

もう少しタフな大人になるんじゃなかったの?と自分に問うてみたりして、

でも鮮やかで儚い女の子はプライベートが謎なものだよとか

それは小説の中の話で、小説の中だからこそ美しいと思う時もあれば、いやそれは描かれたか描かれなかったかの違いにすぎないと思う時もある。

 

大きな「夢」みたいなものがずっと遠くにあると思っていたのだけれど、いつのまにか手放しているかもしれないなと

目の前の化粧品を買えるか とか ショーウィンドウのあのバッグを一つだけ欲しい とかそんな「目標」のようなものはいくつかあれど、

大きな「夢」って無いかもしれないな。

それはきっと私一人ではなし得ないことだから。誰かとの関わりの中で、社会の流れの中で、つまりは揺らぎ続ける中で叶っていくものだから。

意識としての私がいくつもに分かれていろんな人を思いやれるようになっていって、それは過去の私や母親だったりもして、そこから生み出されるものはきっと愛だなあとか。

いつか生成されるとわかっているものは無理くり今すぐ創り出さなくてもいいよなあって。

こうしなきゃいけない!を手放しても、なんとか社会と関わり続けられるのでは無いか、という人体実験をしてやりきりたい気持ちと、

でもちょっと過去に頑張っていた自分の苦労が報われて欲しいような気持ちと、

出会いとかタイミングだから今一人ではどうにもならないよって気持ち。

 

今 一人。