温度感のある景色

自分のために書きます。

昨日たくさん歩いた今日たくさん笑った

人の前ではご機嫌でいたい。

それを意識しているのは大学生になってからじゃないかな?

中高の時の自分はどちらかというとご機嫌を伺う時の方が多かった気がするから。

許されたような顔しやがって。

そうやって伸び伸び生きている、ある種鈍感な?マイウェイを行く子を軽蔑して、羨ましがってもいたけれど

いつしか自分もそういう風に振る舞うようになったような気もするな

そんなことを友達を呼び出したタリーズで思った。

自分から呼び出した挙句に、眠いとか言って、机に置いてあった絵本を一冊読み聞かせした。

いやいや一冊って。途中まででもよかっただろうに。そもそも読み聞かせなくていいでしょ。(突っ込むところがありすぎる)

いやはや幸せなことですよね。

 

すごく面白いことがあってもうずっと大声で笑ってた

土曜日の渋谷、人がたくさん

そんなことも気にせずに。自分の場所のようにして。

 

でも時折、人の顔色を伺っていた自分が顔を出す

私が何かしてそういう風になってしまったなら、とか

私が何かしたことに対しては好感を持って欲しい、楽しく思って欲しい、みたいな気持ち。

それを初めて?人に言った時のことはよく覚えているから

見知った感情を使いまわしているだけなのかもしれないな。

 

 

努力という言葉を最近使わなくなったけど

そのかわりに、なんか嫌だなとか一瞬の不快感を逃さないようになった

私は自分のご機嫌をとるには甘いものを食べるか寝るのが一番だと思っているけれど

それをやりながら不快感のことを思い出し、反芻するようになった

なぜならきっとそれが「サイン」だからだ。

自分の何かが訴えている「サイン」

 

でも、「サイン」だと信じているだけなのかもしれないと思う時もあるよ

 

何が真実か何が信じているだけか

信じているだけってそんなにだめなのか脆弱なのか

倫理学を履修しなければならないな

 

大人になるってなんでも分かっていることだと思っていたし

なんでも分かるようになってからしか大人になれないと思っていたけれど

違うな

読みたい本知りたいこといまストックされている分すら吸収しきれない

それでも一個人として社会と関わらなきゃいけない時はもうすでに来ている

時間は待ってくれないよ っていつもおばあちゃんが言ってるように

だから、

だからどうしたらいいんだろうか

保留なことが多いまま日々を送らなくてはいけないし

保留だとしても未履修でも落単でも、何かしらの態度を取らないといけない

それらを恥じる必要はないけど、いつしか保留していることすら忘れてしまうのではないだろうか

漠然とした恐怖

 

でもね、しょうみ大丈夫なんだと思うんだよね 正味(すきな語感)

なんでって周りの人が生き様(あんま好きでない語感)で見せてくれるから

見せつけてくるから

それに私の何かが「反応」するはずなんだよね

 

楽なために生きているわけではないし

友達に共感されることだけが喜びというわけではないから

享楽的な出来事にストレスを逃しながら

何処か

星雲に向かって?

トンネルの向こうの緑に向かって?

進んでいるようで、吸い込まれているのかもしれないな