温度感のある景色

自分のために書きます。

私から私に最大のエールを送るよ

世界を変えた

だから歪みと余りと反動が来た

楽しんでいた

世界がまた元へ戻ってくる

私は「幸せだ」って思考した

そりゃ幸せだ。安心に近い。

世界の中に私はいなくなって世界が世界として生を持って動いていく

 

 

”あなたの愛は強迫だ”と言われた

そうなんだろう。

「こうであるべきだ」「こうあってほしい」

それが愛だ。

人に望むこと、それが愛だと。

 

 

私はもう「幸せだ」と思わずにはいられない。

考えずにはいられない。

感情の一つ一つを感じられていることを「幸せだと思わなければならない」

感じる何かに幸せというラベルをつけることが幸せであると。

 

 

私の感性なんて、誰かがいいと言ったものしか反応しない。

世界の誰かが良いと言ったものしか愛せない。

誰も何も言わない、気づかない美しさを、探すことはしない。見つけ出さない。

既存の美しさしか、感じられない。

素敵さと書いてあるものしか、素敵だと思えない。

仕方ない。

私は現実を生きる者なのだから。

 

 

湘南の書店生まれ、本女育ち。

それが私の幸せだと思った。

変えられない、変わらないものだけが、「私」であってくれる。

あのまま、絶対に勝てない彼女の隣で、甘んじていればよかった。

痛みに敏感にならず、アイデンティティなんて、自己同一性なんて、代替不可能なんて探さずに、あのままいればよかったんだ。

頑張って頑張って頑張って頑張る。その世界観でいつか報われる時を待っていればよかったんだ。

答えのない時代に、答えがあるかどうかなんて問うてはいけないのだ。

村上春樹に描かれる時を待っているわけにはいかなかったんだ。

 

ああ私はどうするのだろう

許されたような顔をして、どこへいくのだろう。そこに選択はあったのだろうか。

 

 

孤独なんて、私が選んではいけない言葉だと思っていた。

人に寂しさを見ても、それを埋める存在になり得るとまで思っていた。

こんな言葉遣いをするなんて、なんて寂しいのだろう。

 

 

がむしゃらになんてもうできない。着いていくだけなんてもうできない。

このうねった道を手放して楽な方に行くわけにはいかないんだ。

正解にするしかない。そんな愛、強迫。

 

京都は別に帰る場所なんかじゃない

私は東京で生きていく神奈川県民なんだから。

 

 

苦しさでさえも、味わってはいけないと。

誰かの言葉、彼女の彼の彼らの、全てを受け止めるなんてできるはずがないことを「やってしまえるだろう」と。

どこまでも大きな過信を持って

私は、

わたしは、

さとみは、

 

 

 

 

 

 

生きていればいい。

自分で死ななければ、

事実として死んでいたとしても、

戸籍が残っていれば、アカウントが生きていれば、

それでいい。

生きろよ。

死ぬなよ。