温度感のある景色

自分のために書きます。

「健妄ってことにさせてね」

ーーー幾らでも自分の考えを主張できる現代で、

他人と他者と家族と身内と知り合いと友達と仲間と同志と

その他もろもろの人間と物体と情報に囲まれてーーーー

 

 

私の感情すら自分で認められないことがすごく苦しいと思う。

他人の正しさとか今日はどうでもいいと思っている。

吸収と放出の二種類ならどちらでもない。

 

 

生きていることの喜びとか、成長することの楽しさとか、他人と過ごす豊かさとか、

実感として知っていることがあり

でも一方で今望んでいることはありそうできっとない、幻想、夢、そんなたぐいのものなのだろう。

それが実現したとしても今まで得られていたものはきっと得られない。

 

バランスをとってやっていけることなんてあるのだろうか。

ちゃんと社会的動物として生きたい理由は他人が自分に棲んでいるからにすぎないのかな。どこから自我だと認められるのだろう。

 

 

悩んでるねとか考えてるねとかそういう時期だよねとか聞き飽きたし

何様のつもり?

それって人間は大体コピーで定型があるってことですか?それならば今すぐ義務を放棄します。

誰か、信頼できて尊敬できる誰かが、

全てデザインしてくれれば私はその通りにしますよ。

信頼と尊敬だって私の価値観で、自分でそんなこと感じられるのかどうかすらよくわからないけどね。

 

 

散文が書きたい訳ではないの。

でも、いい意味で”読まされる”文章がおおすぎて、

私は”読めない”文章でいいやって思ってしまう。

ブログやTwitterみたいな誰だかよくわからない人の「物語」

小説みたいな存在しない人の「物語」

物語にしてもらえたから存在が認められて多くの人に認められて

まるで存在していたかのように。でも、だから、死んじゃったんだよって私は昔書いていたなぁ

書かれなかったら死ぬことも生きることもない

 

右手を左肩にのせて、反対は腰に回して、枕に頭を強く押し当てて・・・

誰もお前のことなんか襲わないっつーの

自分が自分を喰らうだけ

 

梱包材の詩

ぷちぷちした梱包材

箱に詰めるために沢山たくさん

箱は一つだけ。容量が決まってる。

本当は全部入れたかったの。でも時間切れ

「大きすぎたかな」

 

詰め切れなかった梱包材

かさばる

そんなに重くないはずなのに

大きい

大きい大きい梱包材

まずは端を切り取る。空気の抜けた部分。

捨ててしまおう。

次に空気を抜く。

間抜けな音を立ててぺたんこにしましょう。

そして

そして

圧縮。

圧力をかけて、体重をかけて、踏みつけて、握りしめて、

小さく小さく

なんであったか分からなくなる梱包材

ぱっと力を抜いたらまた広がってしまう

「油断は禁物」

ずっと「梱包材を持っている」その状態のままでいてね

 

 

「あ、こんにちは」

そんな険しい顔して何を抱えてるの

「あっ」

晴れた空に飛んでいった梱包材

////

そんな風に、飛んでいくかな梱包材

果てしなくかさばるけれど

きっといつか飛んでいくよ 晴れた空に ひらひら気持ちよく

「お茶でもしませんか?」

 

体温と気温が同じになったら

 

『リップヴァンウィンクルの花嫁』という映画を二回観ました。

ずっとみたくて、意図せず時間があったので観て、パンフを買い、原作本を買い、読んで、もう一度みて、サントラを買い、聴いています。

岩井俊二作品。

 

みていることしかできないのです。当たり前だけど。

晴れた日に吹く風がとても心地よく、そのまま吸っていたくなるラスト。

自分には訪れようのない世界のような、でも現代社会を写していると評される。

作り物の偽物の偽物はほんものに近い、みたいな。

 

自分のことを理解してほしくて、理解してもらえればよくしてもらえる認めてもらえると思っている私は、

人より通る高い声で、懸命に話すことがおおくて

もしくは暗い あたかも自分だけが辛いかのような文章を書いて

今までで一番 言われて嬉しかった忘れられないであろうことについて話したい気持ちだけどやめておこう。

なんかそれが原因なんだろうな今のこの感情とかも。

言語化されなければよかったし、言ってくれた人もなんならそんなに考えてなかっただろうし、だけれど自分の感覚としてその言葉は当面残ってゆくのだろうな。

自分の言葉じゃないんだから気にしなければよいのにね

 

 

「書く」ということ すごーく好きなわけではないのかもしれないなと。

多分私はライターにもコラムニストにもなれない。ブロガーにはなりたいけど。

ただ、自分の中にある感覚、誰にでもある感覚を、書くことで外に人に分かる形で出せたとき 自分が世界に生きている感じがうれしくて。

中学の現代文の授業で、授業なんてただ座っていただけで、でもテストで箱を埋めるときに自分のなかから言葉が溢れる感覚があって。限られた時間で枠内に黒鉛を埋めて行って、点数として評価されて。「あ、あってるんだ」

それから先生の言った事一語一句書く事で、そのヒントが生まれるってわかって。

そのヒントはそのままにしておくだけで、来るべきときにちゃんと言葉が繋がっていく。そして評価される、必ずといっていい。

評価はその内容に対してということより、説明できていることに対しての意味合いが強いのだろうけど。

あれを読んだ先生方は他の先生より私を理解しているような気がして好きだった

 

たしかに書くことは好きなのだ

でも本当に好きなのか分からないの。

それしかしらないから好きって思っているだけなのかなって。

幸せを感じる方法も1つしかしらないような気がするから苦しいのと同じようにね。

 

でも、好きなものを信じられないことって辛いことかもね。

確かに幸福で快感なのだから。

その定義の擦り合わせすら、満足にできていない。

人のお時間を頂戴したとして、その時間に”貢献”する気がないから。

”貢献”を「意識的に」できる人が人間性含めて評価される一つの基準。

 

なんか、失ってもいいとはいえ、無駄にしてもいいとはいえ、

マイナスになったらおしまいだよなと思うし

動けなくなるだけっていうね

 

過ぎていく時間と、日常と、享受しているものがありながら、

止まることは

できているように見えてできていない。

ならば、

望みはなあに?

 

他の人にとってはただの日曜日

明日 4/17という数字をどれだけ意識してきたのでしょうか
3ヶ月自分を振り回してきたものが明日終わります。
見たい景色は見られるのか分からないし、何が出来たのかもわからないけれど、
終わったら辛いのだろうなと思います。
夢を追うってこういうことなのかな とも。
 
なんなんだろうね
 
なにがしたかったんだろう自分は。
 
内輪の仲良しごっこが心地よかったのかな

仲間が欲しかったのかな

成長したかったのかな

 

なににせよ、「信じる」ことをしてみました。

結果裏切られた気持ちになったし、今までで一番辛かった。高校時代を越えた気がした。

どこにも自分の居場所は確保、担保されていないのだと思った。

それがなんだって話だけれど、

でも終わったらひしひしと感じるのだろうし

今よりもっと死にたくなるね

 

「生きる」ことなんて健康な私にとっては「普通」なことのはずなのに。

 

学生だからできること、社会にでたらできること、社会にでたらしなきゃいけないこと、学生だからしなきゃいけないこと

人それぞれのスタンダード、見ている景色、目指すもの

 

 

でもきっと夢をみていて、その夢が叶って、そして終わるんだ。

 

 

 

誰も何もしてくれなくても、私は私を抱きしめることができるだろうか

命を分散させられるだろうか

 

 

東京はだれでもない人ばかりかもしれないけれどだからこそみんなが生きていていいところ

何にもなれないなら、”人並み”になる必要もないのだから学校やめたい。

自分だけ特別みたいな顔するでない!

 

生きているのを許されたような顔をしよう。明日終わるまで。

後悔したくないって思ったときに後悔ははじまっている

昨日ショーを見て思った事。

クオリティの高低もあるだろうけど

なにかを生み出せる人ってうらやましい。

 

消費するものされるもの

考える人考えない人 でもできるひと
感性 天性 才能 努力
感じる感じない
見られるひとみる人
作る人 ただ立つ人 立てない人 分かる人
身辺整理
作る才能 考える学ぶ努力 エネルギー量
作るもの
 
人の気持ちがもう分からなくなっているし、
分かろうともしていない。
諦めている。
帰る場所がある人たちなんだ 所詮。 とおもっている。
 
人の気持ちの奥の可能性まで考えるから私であったのに。
私でなくなっている。
なりたいじぶんから遠ざかっている。
 
目が据わっていた。怖い自分だった。でもそうでもしなきゃ
頼れるものは自分だけで、信じられるものも自分の痛みだけ
 
後悔するんだろうな。でも、何度繰り返したって同じだ。
10時間後には笑顔になっているならそれで十分じゃないか
生きてるだけで。
人に迷惑をかける死に方を選ぶなよ
自分ができることをする
 

大人の女性には必要不可欠よね

余裕がない。

 

これが価値観が生まれたということなのかもわからないし

ホルモンバランスかなんかが乱れているだけなのかもしれないけれど

普通に質のいい睡眠が足りていないのかな

余裕がない。

 

まあ忙しいのかな?

 

異質物に対する寛容さが無い気がする。

異質物というか自分とは違うもの つまりほとんど全ての物事や人に対して。

寛容さに欠けている気がする。

 

でも、この前の春、出会う人出会う人みんな自分よりもすごく見えて、自分の小ささ無力さ未熟さしかなかったあの時。

聞く言葉全て吸収して、その矛盾や誤差だけで頭がいっぱいになっていた。

いやその時はいっぱいいっぱいな感じはしていなかったけれど、でも消化できない感覚が沢山あったような気がしている。

 

それが今。

「それは違うだろ〜」って思うことが極端に増えた気がする。

自分がその事象に対して何か考えている場合も、そうでないときも、

「なんでそう考えたんだろ」っていう疑問が純粋なものではなくなっている気がする。

 

分かれ目な気がしていて、

ここで、「だってこうこうこうだから、こう考えた方がよくない?」って言い始めたら

なりたくなかった人になってしまうかなと。

 

自分の正しさ、考え、抱きしめて生活していたいな。

 

納得いく毎日なんてどこにもないから。

なんとか平均点50点に、たまに80点の日があって、と思えば-20点の日もあって、

だんだん65点平均になっていくんだ。

 

だから今は、90点出せる日をめざしてるの。

 

守らなければいけない約束、切り捨てられない縁を、

諦めないで

簡単な感情ばかり数えていたら

あなたがくれた体温さえ忘れてしまった。

アイネクライネを聴きながら。題名はドーナツホール。

 

 

SNSって怖い。怖いって言ってしまうのも安易。

自分は4畳の部屋にいるままで

優秀な高校生の考える事も、医学部浪人生の言葉も、芸能人の日記も、

得られる情報量がいっぱい。

手に取るように分かる気持ちに胸が苦しくなって、

漢字ばかりの文章の裏の思考回路を汲み取ろうと頭を回転させて、

なんでも分かるような気持ちになってしまうし、物事の二面性や多面性を考えることになる。

天上人の目、鳥の目を持てた気分になる

 

 

でも、何も分かってない。

「それ」は所詮ブランディングのための作り物かもしれないし、

誰かに見てもらうことだけが救いかもしれない。

それだってスマホから見る私にはわからない。

もしかしたら本人すら自覚していないかもしれない。

 

 

自分の目でみて、触れて、それでさえ分かるかどうか そんなことばかりなのに。

「情報」はどこまで機能するのか。

自分の気持ちすら分からないこともあるというのに、SNS上の言葉でどれだけ寄り添うことができるのか。

 

 

高3の時町田のブックカフェで「ああこの本棚の本全ては一生かけても読めないな」って思ったときと同じ

泣きたくなる ぞわっとする でもそんな瞬間こそ生きていることを思い出させる

 

私を見ていた目 私が見た目

正しさ 正義 自然 論理

滑り落ちて行く言葉、懸命に探す言葉、丁寧に選ぶ言葉

ここにいて、ここにはいない

 

「どうしてやりたくて何故私が何のメリットがあって誰のためにどうやるのか」

論理武装で行動の全てが説明できればそれでいいのか

自分の欲・エゴがあることを認めればそれは正当化されるのか

そう生きている人だってどこかで説明しきれないもののために、むしろそれを隠すためにやっているみたいなところあるはずだ

 

一日一日を大切にしたら知らぬ間に春休みは終わってしまって

よくわからないままに息をしつづける。

生きる意味なんて誰もしらなくて、知っていても決めたにすぎなくて、死んだらどうなるかは誰も教えてくれない。

同じ人間は一人としていなくて、それは生まれた時からなのか育て方なのかすら、誰も証明できない。

証明できない曖昧さがあるから生きる意味があるのに、論理を組み立てられると多くの人を納得させることができる。

 

誰にも会わなかったバレンタイン。

お菓子を作ることが無心になる一つの手段で、必死に作っていたあの頃。

数えられない感情はいくらでもあったはずなのに、今は一つの風景としてしか記憶されない。

ならば一つの風景でしかなかったのだろうか。一つの感情しか持っていなかったのか。それと同じなのか。

 

分からないことだらけだ。

でも、「分からない」で終わらせたら何も起こらない。

分かろうとしたり、分からなくても見る から面白いんだ。

これは昨日思った事だけどね。

 

 

もやもやした夜だね

つづく