温度感のある景色

自分のために書きます。

命を常に楽しめるわけじゃない

その時起こっている現実と

自分が捉えている今は違う。全く違う。

 

現実を見て、他者の現実を見て、それだけに生きることもできるし、

自分の世界のために生きて死ぬこともできる。

 

私は、自分の世界を守るあまりに現実をおろそかにしすぎ。

自分の世界を守るために現実で死んでしまっても気づかなそう。

それは、プライドと呼ぶものかもしれない。

いつだって「頑張ってきた」のは自分の世界を守るため、それだけでしかない。

現実は何も変わらないのに。だから誰にも気づいてもらえないのに。

 

 

私たちは、生まれた時から世界がそこにあって、

「こうあるべき」「こうなりたい」がたくさんあって

あれも欲しい。これもできるようになりたい。

そうやって大きくなっていく。世界に適合していく、ように見える。

それはある程度必要だと誰もが知っている「もう小学生だもんね」

いつからか、わかる。そして選択をせまられる。

「もっと上のランクのものを持つ?」「これをキープする?」「もしくは作り出して観る?」

社会への責任か、血は争えないのか。「普通」になりたくて、「幸せ」になりたくて。

その「幸せ」がどんなタイプかはどうでもよくて、幸せになったもん勝ち。

感じてるかどうかはどうでもいい。

 

降りた方がいい舞台はたくさんある

たくさんの人が降りた舞台もある

それはイコールじゃない

 

同調圧力も嫌い 

 

ただ一つの真実なんんてないし

純度100パーセントなんてない

あるものは、ドロドロでぐしゃぐしゃで影響を受けまくったそれ。

それで以上でも以下でもない

死にながら生きて生きながら死んでいくのかも

 

私には許せないことが多すぎる

完璧なものを定めてしまえばいいのに。

複雑で常に動いている生きた人間を信じてしまうことにしてしまえばいいのに。

書物の上の、動かない文章だけを信じて、ばかみたい。

 

現実に生きろよ

それが大人になるってことだよ

死んじゃだめ とりあえず生きろ?

 

そんなことをW杯を見て、友達と次回の試合を生で観る約束をしながら考えている私

なんなんだ 狂気か