温度感のある景色

自分のために書きます。

言葉を尽くして

別に私が繊細だとか言いたいわけではないということを最初に申しておきたいと思います。

繊細さに程度などないかもしれないけれど、どうしても私は比較があるように思えてしまうから。

 

 

自分の多面性に自分がクラクラしています。

自分が惹かれるものの多様さとも言うのかもしれない。

自分に酔っているとか、もしかしたら自意識の過剰とかそういうものかもしれない。

とにかく、理想とするものが色々とありすぎて、その場その場で好きなものが変わっているような感覚すら覚えるのです。

あと、思考の発露が一方向にしかできなくて、外でキャラクターが変わらないって言うのもあるかも。

極端に明るく能天気な自分と、一番孤独で一人ででも満たされた自分と、かけ離れた二つが一番多く自分に出てくるものだから、クラクラするのかも。

 

表現って難しい。

感じることはいくらでもあり、感じたことに言葉を当てはめることまではすなわち語彙力の問題な気がしていて、いくらでもできるのに、

それを自らの意思として、主張として、または創造物として、表現するのってめっちゃ難しい。

表現が当たり前だった時期もあるかもしれないけれど、今は違くて、表現ってすごく難しいものだ、と思う。

だっていくらその人個人にとって最高の至高の表現が完成したとしても、それが受け取る人に感じたものと真逆の主張として捉えられてしまったら元も子もないから。自分が感じていることと近しいことを人に伝えたいとした場合の表現、ということになるのかもしれないけど。

 

彼の彼女の姿勢、一番大切にしているものは無自覚で、無自覚な振る舞いだから槍を向けられたように思う時もあるけど、

でもやっぱり、そこで、痛い!傷ついた!って言うんじゃなくて、その人がなんの姿勢をとっていたのか見るべきだと私は私に課したいよね

もしかしたら抱きしめたくて手を伸ばしただけかもしれないから。

関東で雪が降るのはシーズンに1度くらいだよね

誰とも本当には繋がれていないじゃないか。その証拠に今この瞬間誰も私のことを気にかけていないじゃないか。

と思う時と

世間から切り離されて、自分から世間を切り離して、時間軸にお惑わされないでいる瞬間が何とも言えず穏やかで、心地よく、この時こそ自分は自分である

と思う時と

どちらも私。

 

今期も単位を落とそうとしている2授業分

いつも折り返してからやりたくなくなる。その瞬間他に大切にしてたいことや、どうしても寝ていたい気持ちになったりとか、まあそのような、自制心があればどうにかなりそうなことでもありつつ、そうでないとも言える。

その波から抜けて、社会に出てやっていけるのかな?とふと不安になったりする。

 

どうなんだろうね

そんなの誰にもわからない。

未来の不安と繋がったってマイナスなことしか溢れて来ない、今と繋がることが最もパワフルだと、私は「言われて」

それは「言われた」だけのことで

でも信じてみたりする。

 

もう少しタフな大人になるんじゃなかったの?と自分に問うてみたりして、

でも鮮やかで儚い女の子はプライベートが謎なものだよとか

それは小説の中の話で、小説の中だからこそ美しいと思う時もあれば、いやそれは描かれたか描かれなかったかの違いにすぎないと思う時もある。

 

大きな「夢」みたいなものがずっと遠くにあると思っていたのだけれど、いつのまにか手放しているかもしれないなと

目の前の化粧品を買えるか とか ショーウィンドウのあのバッグを一つだけ欲しい とかそんな「目標」のようなものはいくつかあれど、

大きな「夢」って無いかもしれないな。

それはきっと私一人ではなし得ないことだから。誰かとの関わりの中で、社会の流れの中で、つまりは揺らぎ続ける中で叶っていくものだから。

意識としての私がいくつもに分かれていろんな人を思いやれるようになっていって、それは過去の私や母親だったりもして、そこから生み出されるものはきっと愛だなあとか。

いつか生成されるとわかっているものは無理くり今すぐ創り出さなくてもいいよなあって。

こうしなきゃいけない!を手放しても、なんとか社会と関わり続けられるのでは無いか、という人体実験をしてやりきりたい気持ちと、

でもちょっと過去に頑張っていた自分の苦労が報われて欲しいような気持ちと、

出会いとかタイミングだから今一人ではどうにもならないよって気持ち。

 

今 一人。

あなたの世界はあなたが選択した世界です

 
夢の叶え方を知ってしまった私たちは、
そのままその工程を追っていくだけで、(簡単にとは言いませんが)夢を叶えられるのでしょう。
その達成感はきっと自分を幸せにするでしょう。
でも、どうしてもわたしには、それではだめな気がしてしまうのです。
ーーー
枠組みに充填するやり方ではなく、たとえ形になっていなくとも、外側に出す努力を意識的にしていくこれからの1年にしたいです。

 

 去年の今日書いた文章

 

振り返ってみるとすごくいい一年だった気がしていたけれど、

ブログの過去記事を読んだら、全然そんなことなかった。

9/20から、11/16から、年の後半にいろんなことがあったから、いい感じに思えてるだけだった。

でもそれもまたいいね。

 

 

「連帯」「全体性」「エネルギー」「ニーズ」「中庸」「越境」

新しい言葉が入ってきた。

テーマがなんとなくわかってきた。

新しい視点があると、見えてなかったものが見えてくる。聞こえなかったものが聴こえてくる。

語彙とか文法が変わってきた年だったなあって思う。

 

今の自分が好き。

そう思えていることが過去の自分と比較すると信じられない。

でも、私を信じることが、私のことを信じてくれる大事な人たちの望むことなんだなとか、大事な仲間が私の良さをいいって言ってくれることで自分の良さを信じられたり。

一人で「さみしいな」「辛いな」「どこにも行けないな」って思う時間があるからこそ、

楽しい時に本当に楽しいと思えるようになった。ありがたいなって。

 

facebookの友達1080人もいるんだって!

数字だけあっても意味なくて、この中の何人とさしご飯行けるかなみたいな。

コミュニティの中でずっと一番年下で、妹キャラで可愛がってもらって、先輩たちのことをニコニコ眺めているだけで楽しくて、

でもそれだけの自分じゃやだなって思うようになった。

私の見ている楽しいを、渡せるようになりたいなって。

ちゃんと関わってる人に私が感じている良さを渡せるようになりたいなと思えてきた。

ちゃんと交わっていきたいなって。

 

何にも進めてないんじゃないか。そう悩んだ一年で、

焦る気持ちが全くないとは言わないし、全くなくなってしまったら多分自分の幸せしか追い求められない人になってしまうのだと思う。

だから、諦めずに人の輪に居続けることを求めていきたい。

その場にいて、楽しい、だけじゃなくて、生み出していく創り出していくを

頑張りたいなあ。

 

相変わらずゆるふわしておりますが、

しっかり私の真実を持っていられるようになりましたさとみ21歳です。

いつもありがとう。

来年もよろしくお願いいたします。

 

これは痛みであって苦しみではない。

それを間違えてはいけない。定義を、間違えてはいけない。それはいつしか自分の感覚であったと保存されてしまうから、即座に判断しなければ置き換えることが難しいから。

 

”みんな”が持っているものが私の手元に無くて、だから欲しくて、その持っていないものがすごく良いものに見えて、

じゃあどうしたら私のものになるんだろう。

自分で取りに行くからには一番良いものが欲しい。

欠乏感からくるエネルギー。

 

ああ、今までって、私の当たり前って欠乏感からくるエネルギーだったな。

やだな

もっと純粋なところから、何によって私は動くんだろうか。

自分で自分をなだめて、自分に発破かけられるのはもうやだな

一人で、他人と並ぶために関わるために一人で頑張るのは、疲れたな。

そんなわがままな私を優先させてあげたら、

目の前に目標がなくなり、何も頑張らなくてよくなった。そしたら、やっと生きているだけで良い人間になれたはずが、生きてる理由も意味も、朝起きて夜眠る意味が、食べる意味が、なくなった。

あれ?

とりあえず空虚な時間にネガティブになりたくなくて、良さそうなものにお金を使って、ああこんなものを味わえる自分!って思ってみたりして、

でもこれは誰のためなのかな 

 

結局、そのままでいいんだよって言ってくれる人が欲しくなった。

私は私にそのままでいいよって言いたくなったから、それを後押ししてくれる人が欲しくなった。

それを、”みんな”がそれを、言ってもらっている一番の場所は、家族のように見えた。

だから、家族が私の今年のメイントピックだった。

 

”みんな”って誰だよ そんな人どこにもいない、それはわかってる。

一般化されたものそのものにだっていろんな部分があることをいろんな可能性を削いだ概念になってる偶像だってわかってる

それでも、やっぱり、

羨ましい

自分の持っていない「当たり前」が。

 

give&takeじゃない関係性があるなんて羨ましい。

 

私だってずっと愛されていて、だってそうじゃなきゃ今の私になれてるわけがないんてことはずっと前からわかっているし。満たされていないこの環境は、ここまで死ぬ気の血を吐く努力をしてる人たちと同じ屋根の下住んでるって知ってる。

でも、だからって私が人並み以上に頑張らないといけない理由にはならない。私にとっては、それは理由にはならないどうしても。

 

私はこの痛さを、彼らの論理に従って「今私が頑張ってないからいけなかった」ことにはしないぞ。それと同時に、私の論理に従って「なんでお祝いをしないの?食卓を楽しまないの?家族団欒しないの?」とは彼らには言わない。

じゃあこの感情は、痛みは、どこに行くのだろうか。

 

明日ちゃんと早く外に出て、なんか素敵なランチ食べよう

そう自分を慰めたところで、違う。違うの。私は誰かと一緒に食べたかったの。お金にものを言わせて一人でやりたいわけじゃないのよ。

 

 

 

私が今目標設定ができてなくて、セレンディピティを待つ!みたいな結論しか出せていなくて、結果として何も残せなかった一年を過ごしたことと、

今話してきた一人では埋められない寂しさと家族、の話とは、

全く別の問題で、いやもちろん同じ世界で起こっていることではあるけれど、どちらかが先に解決したらどう、って話じゃない。

本当に起こっていることはきっと一つなんだろうけど、でもごっちゃになるから、別の問題として捉えて処方していきたい。

 

 

今年面白かったポイントは、こういうとき逃避する先が、本でも音楽でも映画でもなく、食と化粧品だったところかなあ

 

 

私は別に一人じゃないし、この世界は素晴らしいし、自然は美しいらしいし、人工物も素晴らしくて大好きだし、

でもやっぱりクリスマスケーキが食べたかったなあって。お誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも欲しかったなあって。私が自分で言わなくてもやろうとして欲しかったなあって。

それが悲しいの、寂しいの、痛いの。うん。そうなんだ。そんな感じなんだ私、今。

最後から2番目の天皇誕生日おめでとう私

ずっと書きたかった。でも書いてなかった。

なんか難しいなって思う。全部を整えるのって難しい

 

 

私の20歳の肖像

 

2017年

 

一番面白い3年生らしいこと、リーダーとか幹部とか、先輩っぽいこととか、そもそも組織とか、何にも関わらなかった。だから寂しかった思いもした。

夏はすごく退屈だった思いがある

でもなんか後半は楽しかったような、とにかく何かしたい!のエネルギーが溜まっていて。

そのエネルギーがどこかに掃けたら、生活が成り立たなくなっちゃうかもっていう怖さがあってあと少しが踏み出せなかったり。

新しい出会いが2月にあって、なんか新しいものを、今まで持たなかった感覚をたくさん感じたようにも思う。

もっと人と深く、絡み合って、輪郭を曖昧にしたかったな、そんな関わりが欲しかったなとか。

「私」はここまで って輪郭を保とうと努力するのって結構寂しい行為だと気付いたから。

 

お誕生日は人にとってはなんでもない1日で、じゃあ私にとってもそうかなとか、そうじゃないかな、とか。なんせこんな季節に生まれてきたから、特別感を出さなきゃ!って思わされているような。

去年も今年も一人だしなあ。。。ま、そういうものかな。

 

 

みんなにおめでとうって言って祝われて、みんなにありがとうって感謝する

 

クズな私もたくさんいるし、素直な私も、強気な私も、たくさんいる。全部自分で、自分でしかない。その嬉しさに気づけた20歳だったなあ

いっぱいあるなあって。満ちているんだなって感じられるようになった。

今の気持ちが、本当に自分から湧き出てきたものなのか、誰か別の人の声なのか、社会の声なのか、それを区別することによって生きやすくなったと思うとても。

ずっと世界がいっぱいあることのその膨大さが怖かったけど、ある世界は一つで、ただ見方が、世界観や自分の世界と認識する範囲が、人の数以上あるだけだった。

あなたも私も同じ瞬間一緒に生きている。

私の世界は私が決めたもので、いくらでも広く、いくらでも狭くできる。

何が良くて、何が悪い、それも私が決めたこと。決めてないとしたらなんとなく周りに流されて決まっていたもの。もっと選べる。

自由ってそういうことなんだ。

自分の感覚を大事にしながら、他者性を求めていく、そんなチャレンジをできたらいいな21歳

 

 

本当にいい天気!どこか行きたいどこに行こうか

早くお風呂に入らないと

キラキラに一生憧れて恋い焦がれる。

でも

お化粧品のキラキラなら毎日だって纏えるの

幸せな女の子に生まれたものだわ

 

 

うまく言葉が出てこない

でも言葉でしか他人と繋がれない

 

 

大丈夫。

何人もの人が私にそう残して去って行った

その言葉の真意はなんとなくわかる

その人たちにできることがないのだ、あまりにも私が頑なに自分しか信じていないから。自分の決断以外に私を動かすものがないから。そのまま進む以外に選択肢がないのだ。

でもその、自ら選んだ、選択肢がないという選択肢に苦しめられている

 

私には何もない。今年何もしなかった。どこにも行けない。誰も私を求めない。

いやでも、涙を流した夜があった。新しい価値観に出会い、新しい友人ができた。自然が好きだって思うようになった。外を見に行きたい気持ちが生まれた。

だから生きてきてよかった。

 

 

「これをやりたい、成し遂げたい」がないのならどの組織にいたって、その組織じゃなきゃいけない決定的な理由が無いじゃん

そう言われた。

そうなのかも。

求めてくれたらどこでもいいのかも。

でも方向性はあるはずで、私が望む方向はどこだろう。

 

 

多分ちょっとずつ自分を許せるようになってきて、大丈夫って言ってくれた人たちを愛するうちに逃れられない自分を愛せるようになってきたと思う。

この先何をすれば自分を肯定できるのかもなんとなく見えてきた。

これから時代が、世界が、イコール価値観が、人の感情の動きが、変化していく中で、

日本の若者、あの苦しんでいた自分と同じような若者が、生まれるのかどうか私は確証がない。その彼ら彼女らに自分が何ができるのかもわからない

穴の空いたコップには、何を注いでも、すぐ空になってしまうから。

他者が、大人が、できることは「与える」ことじゃないから。

支える、とか、転換する、とか、そう言ったこと。パラダイムシフト。

 

ああ自分はあんなに信用していなかった、よくわからなかった、「大人」になりたがっているんだな今

 

ノートに綴る言葉、ツイッターに書きなぐる言葉、パソコンで紡ぐ言葉、

全部違う私が出てくるから困っちゃうな全くもう

 

去年流行ってた時には読みたくなかった「マチネの終わり」を読んで

本当に辛くて、

ああ理不尽が本当に嫌いなんだなと思った。

自分にはどうしようもないことが人生には起こるものなんだ、と分かりたくない。

全部自分が招いてきた、自分で決定してきた、と思いたい。この先も自分次第だと思いたい。

でもきっと違う。

他者が私の思い通りには動かない。愛した人に捨てられ、信用していた人に裏切られ、はめられ、蹴落とされ、先輩に見捨てられ、同志に切り捨てられ、地震が起こり、洪水が起こり、台風が、火事が、そして家族の死が、

望まなくたって急に上から降ってくる。

そんな時に

今の私なら何もできない。

でも、大人って、これからの私は、それでも自分の信じる方向に進まなきゃいけない。羅針盤を失ってはいけない。

ああなんて怖いんだろ

どうしようもない不安に今から襲われる

 

未来は不安のエネルギーを連れてくる、だから今の「ある」のエネルギーに恵まれてるの気持ちと繋がった方がいいって言われた。

そうなんだろうな

今は誰も死んでない。誰にも恨まれてない。妬まれてない はず

 

 

いろんなことを上手に「言語化」して人を説得しなきゃいけない

いつもやってる言葉遊びじゃなくて

そんな年始が近づいていて、

うまく話せる自分が見えなくて、怖いな

私に愛をくれる眼差し その人たちにとってはなんでもない視線から受け取る愛を 常に常に体温を伴って 隣に置いておけたらいいのに

なんて

 

失敗すらできてない失敗

アウトプットする癖をつけないといけないな

 

PDCA回さないと

 

まずプランが立ってないしチェックもできてない

 

振り返りの力が弱いなんて思ってもみなかったな

 

メガネが明後日届く?すごい目が見えないんだけど。

人のつながりとは。

目の前でコミュニティビジネスのプロですって言ってる人がfbの友達800人らしい精度低そうww

 

何がやりたいとかどうとかわからんし

何をとりあえずやる!みたいな気概もないし

人に自分のことを曝け出す勇気もないな

 

yuune.jp

 

わかりやすいアイディアなんてみんな知ってるんだし

 

私は「みんな一緒」「みんな違う」「世界は私のものじゃないけどみているものが自分の生きる世界」「いい意味でわきまえる」

なんかそんな感じの。

 

 

だめです。自分が嫌いです。悲しい!!!!もどかしい。勿体無い。

自分より大きいものを見ようとしすぎている?かな?