温度感のある景色

自分のために書きます。

いつだって初めてみたいな顔をしてくる春は可愛い

ブログなんて書いてるやつみんな自意識過剰だ 

みたいな文章を見た(読んでない。見た)

上等。

 

 

高校三年の時、あの逼迫した日々、

少しでももっと夢を大きく描ける場所があればよかったのかなと考えて

いや、そんなことは起こり得なかったのだ、と納得をさせる。

大学生だからこそ学問できるはずなのに、私このまま学問に触れられないまま死ぬのなんて嫌なんだけど。

高校三年くらいからずっとやりたかったことをやっている人々はまあ、まあ、羨ましく見えるものよね。

この1年間、本当にあの1年前から私の世界の見方は刻々と変化していて、

今考えると訳がわからないこともたくさんある。

でも多分今回のことで、また1年後確かな変化が起こるのだろうなと思うと

ワクワク。

春の初めの京都はいつだって私を連れて行っちゃうんだから、もう。

 

でも、その変化を一定の距離から見ていてくれる人が何人もいて、

私はその人たちからの視点を確認するたびに、生きていてよかったと安堵する。

過ごす時間の長さじゃない。まなざし。

 

 

 

私はどうしても越境が好きで、どうしても混沌が好きで、

ずっと場にいられたらどれだけいいだろうと思ってしまうけれど、

それは違う。

場の豊かさは、構成している人それぞれの自分史によって作られていて、

その自分史は彼らが一人であるから養われたものなのだ。

え、

じゃあ、

私は?

って不安になってみたりね。

みんなのために、なんて幻。

自分のため、もはや無私の探求こそが、世界のためになるのだ。

まだそこまで力を持って言えないけれど、でも本当に「そう」なのだと思うよ。

でもだから私もそれに習わないといけない訳じゃない。

面白いよね

 

足元がしっかりしない、視界もはっきりしない。

自分の殻を強固にしてしまえば不安に駆られることもないのに。

内側を見つめなければ、外側の素敵さに酔っていられるのに。

それらの愛おしさを本当の意味で理解できてないから私はこうして残そうとしてしまうのです。可愛いでしょ。

 

誰かの言葉を信じたいという点で姿勢は同じなのかもしれない。

でもその誰かの言葉を数えきれない賢者が精査していて、

自分も疑いの目を持って検証することが尊いのかしら。

私のように、自分の体験しか分からないのなら社会はこんなに大きくならなかったものね。

でも果たして一生分よりも大きなものをつかもうとするのは人間の傲慢なのではないですか?

いや多くの人とわかり合うということに一番近いことは同じものを同じ見方で見て同じ意味を感じることなのかもよ。確かにその点ではとても有益ね

弱さなんて誰しも持っているのだから比べるまでも見せびらかすまでもないのかもしれませんね。

だって誰の人生が一番重かったかなんて誰からも決められないのよ。

 

 

「知」ではなく「智」が扱われた場

 

 

 

とかく、自分の人生を歩もうと、自分のことだけをまずは考えようと、思うのですよ。

すぐ”みんな”に会って構って欲しくなるから。

すぐ依存したくなるから。

すぐいなくなりたくなるから。

不安になって何者かを目指したところで、誰かの手垢のついた称号しか得られないのなら、

何度も訪れる春の桜のためにずっと場所取りしているのと同じでしょうから。

 

 

情報過多の東京にいたから、京都に行けたのよ。

全ては起こるべくして私が招いた気づきのための事象なのよ。